堕とされた母 ③

コーラをひと口飲んで、気を静める。
「高本くんの友達の話でしょ?」 話題を戻そうとする。
「その、相手の女のひとの、反応はどうなの?」
「どうってなあ。最初はやっぱ、まともには取り合わない感じだったみたいよ。そりゃあ、そうだよな? 大人の女が、中学生に口説かれて、本気にゃあしねえや」
「そうか……そうだよね」 裕樹は、深くうなずいた。
(僕とママみたいに、いくわけないもんな)
自分たちのような特別な絆がなければ、と。
「だから、オレも無理だって言ったんだけどさ。ダチは絶対諦めないって。めげずに、アタックし続けてさ」
「……女のほうも」 と、市村が話しに加わる。
「熱心に口説かれて、悪い気はしてないみたいだけどな。満更でもないって感じで」
「いやあ、でも、そこどまりでしょう。それ以上は無理だって」
力をこめて、反論する高本。
「オレも、ダチのマジなキモチは応援したいけどよう。でも、中坊がいくらマジになったって、いい年した子持ちの女がオちるとは思えねえんだよな」
「……うん…」
「だから、スッパリ諦めてさ。もっとフツーに、同年代の女を探したほうがいいって、ダチには言ってるんだけども」
「好きなようにやらせときゃいいんだよ」
素っ気なく市村が言うのに、高本は顔をしかめて、
「ってさあ、冷たいと思わねえ?市やんって。共通のダチなのにさ。なあ、越野はどう思う?」
「……うーん……」 真剣な表情で、しばし考える裕樹。
「……僕も、難しいとは思う。その友達の想いが叶うのは」
「やっぱ、そう思う?」
「うん。やっぱり、年齢のこともあるし。それに、子供がいるんでしょ?」
「ああ、いるいる。息子がひとりな」
「だったら……母親としての愛情は、なにより子供に向かうと思うから」
「なるほどなあ。確かに、息子を溺愛してるっぽいよ、そのママさんも」
高本は、しきりに感心して、
「いやあ、越野、深いよ。オレが見こんだだけのことはあるぜ」
「あ、いや、あくまでも、そうなんじゃないかって話で」
「謙遜すんなって。うん、そんな女が、中学生の口説きに応じるわきゃねえもんな」
「うん……そう思うけど」 でも……と、裕樹は続けた。
「その、高本くんの友達も、無理に諦める必要はないんじゃないかな。どんな相手だって、好きになっちゃったら、しかたないもの」
「………………」 高本の顔が珍妙に歪んだ。
それが、吹き出しそうになるのを懸命にこらえているのだとは、裕樹にはわからない。
「どうしたの?」
「う、あ、いやあ」
「……越野って、大人な考えを持ってるんだな」
笑いの衝動と戦う高本を、市村がフォロウする。
「え、そんなこと、ないけど」
「ゲホン、うう……いや、まいった」 咳払いで誤魔化して。
「そうかあ……そうだな、真剣に想い続けてれば、いつか叶うかもしれないしなあ」
頬をヒクつかせ、上擦った声で、高本は言った。
裕樹は、うん、と頷いて、
「そうなると、いいね」 率直な心情を口にした。
「越野ッ」 いきなり叫んで、腰を上げた高本が、裕樹の肩を掴んで、激しく揺さぶる。
「なっ、ちょっ」
「オマエは!いいヤツだなあ!」 嬉しそうに言って。ゲラゲラと笑った。
ついに爆笑を堪えきれなくなったのを力業で誤魔化したのだった。
「ちょ、やめてよ」 周囲の目が痛くて、裕樹は必死に制止したが。
お構いなしに、気が済むまで裕樹の華奢な体を揺さぶって、笑いを響かせた高本。
やがて、ようやく笑いをおさめて、裕樹を解放して、腰を下ろす。
「いやあ、スマン、ついコーフンしちゃってよ」
イカつい顔は、まだ笑み崩れて、赤く染まっている。
「越野、いいよ、おまえは。男気がある。それに優しいしな」
少しグッタリとしている対面の裕樹を、上機嫌に持ち上げて、
「どうよ、市やん? 市やんにも、少しは越野の優しさを見習ってほしいね、オレは」
「そうだな。俺も、ちょっと感動した」
「やめてよ、ふたりとも…」
恥じ入るように肩をすぼめて、裕樹が呟く。しかし、悪い気はしない。
裕樹にしても、高本と市村の友人思いに、見直した気持ちになっていた。
「越野のおかげで、今日は有意義な話になったよ。アリガトな」
「そんな、たいしたこと言ってないし…」
「んなこたあ、ないって。また相談にのってくれよ」
「え、あ、うん、いいけど…」 また? と迷いながらも、結局承諾する。
この程度なら、つきあってもいいかと思ったし。高本の友人の恋の行方にも
興味を抱かされてしまっていた。
「ありがてえよ。市やんが、この通りの冷血人間だからさ。他には話を聞いてもらえるヤツもいなくて」
高本の言葉に、裕樹は、ふと思いあたって、
「宇崎くんは?」
「……宇崎クンに、相談しろって?」
「あ、うん、ダメなの?」
「そうだなあ……宇崎クンになあ……相談できりゃあ、いい、けど」
「達也も、他人の恋愛沙汰なんかに興味はないタイプだから」
「そうなんだ……」
「……悪い、オレ、ちょっとトイレ」
裕樹から顔を背けるようにして立ち上がった高本は、足早にトイレへと向かった。
「……?」 キョトンと、それを見送って。
裕樹が視線を戻した先には、呆れたような感心したような微妙な表情で見つめる市村の顔があった……。
「……もう、死ぬかと思った。便所駆けこむなり爆笑。まだ腹イテえもの」
裕樹と別れてからの、ふたりの会話。
「越野って、ステキすぎ」
「まあな」
「市やん、よくあんな平気な顔してられるよ。アンタの血、何色よ?」
「いや、正直、辛かった」 思い出して、口元を歪める市村。
「……おかしかったのはさ、アイツの反応が、達也から聞かされてる越野ママと通じるものがあってさ。やっぱ、親子なんだなあとか」
「ダハハ、やっぱ、遺伝ってやつ?どんどん、こっちの思うツボにハマってくれるってのが、越野家の血のなせるワザ?」
「期待以上だろ、あれは」
「だよねえ。今日はツカミ程度だから、そんなに盛り上がらないかと思ってたのに。オミソレしちゃったな」
「おそるべき才能だな、ある意味」
「今後の“報告会”が、スッゲエ楽しみになっちゃったよ」
「まあな。……あ、ひとつ気にかかったんだけど」
「なに?」
「おまえ、越野って、やっぱり童貞だと思う?」
「はあ? あったりまえじゃん、そんなの」
「……まあ、そう思うよな。いや、その話題の時の反応が、ちょっと妙だったから」
「ないない。あんなガキ、相手にしてくれる女なんかいるわけないじゃん。あのエロい母ちゃん以外に、女と口きいたこともないって、きっと」
「……だよな…」
(母親だけ、か……) 市村は、裕樹と佐知子の姿を思い浮かべてみる。
(……そりゃないか。あの母子には…)
隠微な影を見ることが出来ずに、この時は疑惑を打ち消した。

……今日も、佐知子は達也のそばにいる。
朝、出勤してから、午後も夕方に近づいた、この時間まで。
ほとんどの時間を、ふたりきりの病室で過ごしている。
静かに穏やかに、時間は過ぎていた。何事もなかったかのように。
達也も佐知子も、昨日のことは、一言も口にしなかった。
つい昨日、この部屋で起こったこと-達也が佐知子への恋慕を告白したことも、佐知子が達也の若い欲望を、その手で処理したことも。
けっして話題にされることはなかった。
ベッドに横たわった達也と、その傍らに椅子を引いた佐知子。
達也が他愛もない会話をしかけ、佐知子が言葉すくなに答える。
そんなふうにして、ありあまる時間を消化していく。
昨日までと、なにも変わらぬような光景。まったりと。静かに。平穏に。
しかし。無論、それは表層だけだった。
ふたりが、前日のことを忘却しているわけがなかったから。
達也は、いつものように、あれこれと佐知子に話しかけながら。
時折、フッと言葉を途切れさせて、佐知子を見つめた。
昨日までなら、ここで臆面もない賛美を口にして佐知子を赤面させているところだったが。
今日の達也は、なにも言葉にはせず、ただ、深い感情を湛えた眼で、佐知子を見つめた。
佐知子の反応も、昨日までとは変わっていた。
なに? と何気ないフリを装って聞き返すこともなく、なにか話題を持ち出して雰囲気を変えようともせず。
ただ佐知子は、気弱く眼を伏せて。頬に熱を感じながら、達也の熱い視線に耐えていた。やがて、達也が表情を戻して、新たな話題を口にするまで……。
そんな奇妙な無言劇を(表面的には)穏やかな会話の間に差し挟み、何度か繰り返して。
その度に、息がつまるような重苦しさを、少しづつ沈殿させながら。
長い午前と長い午後が過ぎていった。
達也も、少しづつ口数が減っていって。ふたりきりの病室には静寂の時間が増す。
静かさは、張りつめた室内の空気を、いっそう強調するようだった。
それに耐えかねたように、佐知子は何度か立ち上がって、窓を開閉したり、カーテンを調節したりと、仔細なことに立ち動いたが。
なにか口実をつくって、部屋を出ていくことはしなかった。
落ち着かず、緊張して、なにかに怯えるような色を滲ませながら、病室に、達也のそばに留まっていた。
……達也は、そんな佐知子をジックリと眺めて。そして、
「……たまには、外の空気が吸いたいな」
そう言ったのは、窓から望む空が赤く染まり始めた頃だった。
「ゴメンね。我がまま言って」 達也が言った。
左に松葉杖を突き、右側を佐知子に支えられて、ゆっくりと階段を上りながら。
「……いいのよ…」 短く、佐知子は答えた。どこか、上の空に。
達也の脇下に肩を入れるようにして、体を支えているのだが。
この体勢では、達也の言葉は、直接耳に吹きこまれるようなかたちになって、佐知子の鼓動を速め、気をそぞろにさせるのだった。
「優しいね。佐知子さんは」 また、達也の声が、すぐ近くで響く。
佐知子は、意識して視線を下に向け、足元だけを見るようにした。
密着した肩や胸に、達也の体の重みがかかっている。
硬く、しなやかな肉体の感触。熱と匂い。若い男の。
意識するまいと思っても、どだい無理なことだった。この状況では。
逃れようもなく迫ってくる、若く逞しい男の肉体の特徴が、佐知子を息苦しくさせる。不安な情動を喚起する。
「ひょっとしたら」 慎重にステップを踏みしめながら、達也が言った。
「今日からはもう、佐知子さん、来てくれないんじゃないかって。心配だったんだよね。昨日、あんな…」
「達也くん、そのことは、もう…」
この日はじめて昨日のことに言及しかける達也を、佐知子が制止する。
「佐知子さん、まだ怒ってるの?」
覗きこむようにする達也から、佐知子は顔を逸らして、
「そうじゃ、ないけど……私も軽率すぎたと反省しているの。
 だから、昨日のことは、もう忘れてちょうだい」
「僕が、佐知子さんに好きだっていったことも?」
「……そうよ…」
「それが、佐知子さんの答えなの?」 達也の声が、冷たく無感情なものに変わる。
ハッと、佐知子が顔を上げたところで、階段が終わった。
達也は、表情を隠すように顔を背けて、佐知子から体を離した。
「それが、佐知子さんの気持ちなら……仕方ないよね」
顔を背けたまま、そう言って、鉄扉を押し開けた。
開いた扉の向こう、屋上へと、ひとり踏みこんでいく。
「達也く……」
咄嗟に呼び止めようとして。しかし、なんと言っていいのかわからずに。
佐知子は、無意識に、自分を抱くようにまわした腕で、達也の重みと温もりを喪った肩のあたりをギュッと掴みしめて。
ようよう足を踏み出して、達也の後を追った。
陽はさらに傾いていた。屋上には、人気はなかった。
達也は器用に杖を操って、フェンス際へと進んだ。
高い金網越しに、夕方の街並みを見下ろす。
その数歩後ろに、佐知子は佇んだ。
「いい眺めだな。気持ちいいや」
ひとりごとみたいに呟いて。その後、達也はしばし沈黙した。
「…………」
佐知子は、やはり掛ける言葉を見つけられずに、不安そうに達也の背を見るだけだった。
後悔に似た感情が、胸を締めつける。
馬鹿げたことだと思って、しかし、今さっきの自分の言葉を打ち消してしまいたいという衝動を払うことができず。
「……あ、あの…」
その後に、どんな言葉を続けようとするのか、自分でもわからぬまま佐知子が小さく震える声を吐き出した時。
ゆっくりと、達也が佐知子へと振り向いた。
「やっぱり……フラれるなら、ちゃんとフラれておきたいな」
達也は言った。淡々と、しかし、その端正な面には、自嘲の苦い笑み。
「そうじゃないと、諦めがつかないから」
「そんな、フるとかフラれるとか、そういうことじゃ…」
「だって、佐知子さんは僕の想いを受け入れてはくれないんでしょ?」
「それ…は……」
「だったら、やっぱり僕は佐知子さんにフラれたってことになる」
「だから、そうじゃなくて」
苦しげに眉を寄せて、達也の言葉を否定する佐知子。
“その通りだ”と、言ってしまえば、落着するはずなのに。
どうしても、自分が達也を拒んだとされることを看過できなかった。
「そうでなければ、なんなのさ?」 達也は、わずかに苛立つ気配を見せて、
「……もしかして、佐知子さん、まだ僕の気持ちを疑ってるの?」
「……疑う、というんじゃ、ないけど……」
「けど、信じることも出来ない?」
「…………」 無言の肯定に、達也は深く嘆息して、
「ひどいな。拒まれるのは仕方ないけど……想いを信じてさえもらえないなんて」
「違う、違うのよ、達也くん」
痛切な響きに胸を刺されて、佐知子は、己が心の核心に近い部分を吐き出す。
「達也くんを、達也くんの気持ちを、疑うんじゃないの。ただ…どうしても、それが私だということは、信じられないのよ」
整理のつかない感情を、そのまま言葉にする。
「どうして?」
「だって、私はこんなオバサンで……達也くんと同じ年の子供もいるのよ?」
「それが?」
「それが、って…」
「確かに、佐知子さんは年上の女性だ。僕からしたら」
親子ほどの年の差を、それだけで片づけて、
「年上の、すごく綺麗で、とても優しい女のひと。それが、僕にとっての佐知子さんだ。そんなひとに惹かれてしまうことが、そんなにおかしなことかな?」
「………………」
達也の言葉には、少しも迷いがなく。その眼はあまりにも真っ直ぐで。
佐知子を呪縛して、言葉を失わせる。
危険だ、と。佐知子の意識のすみで、理性や常識が叫んでいる。
このまま、達也の言葉に耳を傾けてしまうことは。
「……年上っていっても……限度が、あるわ……」 どうにか、声を絞り出した。
「限度って?誰が決めるの、そんなこと。年の差がいくつまでならよくて、いくつからはダメなのさ」
「そんなの……常識的に……」
「だから、誰が決める常識なのさ?世間一般とか、社会的にってこと?知ったこっちゃないよ、そんなの」
一言で、達也は斬り捨てる
「……乱暴よ……達也くん……」 弱い呟きには、反論というほどの力はなかった。
達也の乱暴な強引な言葉が、とても心地よく胸に響いてしまう。
自分を縛りつけるもの、立場だとか良識だとか、こだわりやしがらみが、ひたすら純粋な想いによって、引き剥かれていく。
これを……畏れていたのだ、と佐知子は知った。
こうなることが怖くて。しかし、本気で避けようとしていただろうか?
この時に辿りつく前に、逃げようはあったのではないか?
本当は……恐れながら、待っていたのではないか?
「……佐知子さんが」 達也は続けた。
いまはもう、神の裁きを待つようなか弱い風情で、彼の前に立ち尽くす佐知子へと向けて。
「僕のことを、子供としてしか見れないというなら。佐知子さんにとって、僕が、あくまでも息子の同級生で、担当の患者でしかなくて。どうしても、ひとりの男として見ることが出来ないっていうなら。それだったら、どうしようもない。僕も、諦めるしかない。僕と佐知子さんの年齢差が問題になるのは、その場合だけさ」
落ち着いた声で。また一歩、佐知子を追いこんでいく。
「どうなの?佐知子さんには僕は子供でしかないの?僕を、男だとは感じてくれないの?」
「………………」 佐知子は答えられない。
達也が、まだ中学生で、息子の裕樹と同い年であるという事実。
達也と共にある時に、それを意識することは、ほとんどなかった。
達也は、佐知子がこれまでに出会ったどんな男よりも、大人で。
度量が大きくて。不可解で。魅力的で。
……逞しい肉体を持っていて。
達也は、まぎれもなく“男”だった。佐知子にとって。
佐知子が、これまで生きてきた中で、最も強く“男”を感じる存在だった。
そんな己の意識を、あらためて確認させられて。
だから、佐知子は、達也の問いに答えることが出来なかった。
ふいに、達也が動き出した。
杖を突いて、ゆっくりと佐知子へと歩み寄ってくる。
「……あ…」 佐知子の顔に怯えが浮かんで。
しかし、足は竦んで。達也に駆け寄って補助することも、踝を返して逃げ出すことも出来ないまま。
ただ、夕暮れを背景に近づいてくる達也の姿を見つめていた。
やがて、達也が佐知子の眼前に立ちはだかる。
とても近くに立って、静かな深い眼で、佐知子を見下ろした。
「……僕は」 茫然と見上げる佐知子に、静かな声で語りかける。
「佐知子さんも、少しは、僕のこと、好きになってくれてるかなって。思っていたんだけど。自惚れかな?」
「……それ…は……でも……」
視線を逸らすことも出来ないまま。意味のない言葉だけが洩れた。
「だって、佐知子さん、今日も僕のところへ来てくれたじゃない。僕の想いを知ったうえで、それでも来てくれた」
「……それ…は……」 ああ、そうなのだ、と。自分の心の謎を解かれてしまって。
諦めにも似た納得の感情が佐知子の胸を満たした。
困惑して、疑って、しかし、自分は達也から離れようとしなかった。
真実、彼を拒みたければ、どうとでも方法はあったはずなのに。
「……で、でもね、達也くん」
残った、最後の理性が、最後の抵抗を試みる。はなから打ち消されることを期待しているような、儚い抵抗を。
「常識とか体裁とか、そんなつまらないモノに用はないよ」
はたして、達也は一蹴してのける。佐知子の望むとおりに。
「知りたいのは、佐知子さんの気持ちだよ。本当の、ね」
「……私、は……」
「佐知子さんは、僕のこと、きらい?」
「……きらいじゃ、ないわ……」 断崖。踵が宙に浮いているのを、佐知子は感じる。
「うれしいよ」 達也が微笑む。
「でも、それだけじゃたりないんだ」
達也の手が、佐知子の肩にかかって、そっと引き寄せる。
かたちばかりの抵抗も、佐知子は示さずに。
ただ、潤んだ眼を達也に向けていた。
地を踏んでいるのは、もうつま先だけ。危ういバランスを保ち続けることなど不可能なのだと、気づかされて。
「ねえ?」 達也が促す。
「……達也くんを……」 泣くような声を絞り出した。
「……達也くんを……子供だなんて、思ったことは……ない、わ……」
今ごろ、達也の先の問いに答えることで、心の真実を告げた。
それが、佐知子には精一杯のことで。
しかし、達也は正確に、その意を受け止めて。
「ありがとう」 本当に嬉しそうに、微笑んだ。
(……ああ……とうとう……)
認めてしまった、と。佐知子は、取り返しのつかないことを、してしまったという恐れと悔恨を感じて。
しかし、まぎれもない解放の感覚もあって。
開かれた心を急速に満たしていったのは、やはり喜びだった。
新しい恋を得た“女”としての。
「好きだよ。佐知子さん」 達也の囁きが、佐知子の酔いを強める。
彼は……いつでも、本当に大事そうに、宝物を扱うように、自分の名前を呼んでくれる……“佐知子さん”と。
「……達也くん…」
自分の声は、どんなふうに聞こえているのだろうか? 彼の耳に。
いま、自分は、どんな顔を彼に向けているのだろうか? おかしくないだろうか。
……急に、居たたまれないような恥ずかしさを感じて、俯く佐知子。
だが、頤に添えられた達也の手が、そっと仰のかせる。
「達也、く…?」
ゆっくりと、達也の顔が近づいてきて、佐知子は呼吸を止めた。
顎にかかった達也の手の力は弱かった。
振り払うことも、迫る達也から顔を背けることも、容易いことだったのに。
しかし、佐知子は、そうしなかった。
佐知子は、ただ呆然として、達也の顔が接近するのを許して。
そして、唇が重なる寸前に、そっと両眼を閉じたのだった……。
残光に照らされる屋上。
ふたつの影は、ひとつになって。長い間、離れようとしなかった。
-10-
……いつも通りの、夕食の風景。
母子ふたりきりだから、賑やかに、とはいかないが。
穏やかで、和やかな団欒の雰囲気。
「裕樹、おかわりは?」
「うん」 たとえば、たったそれだけのことが、裕樹には嬉しい。
裕樹から頼むより先に、母が空の茶碗に気づいてくれたというだけのことが。
それは、母がちゃんと自分を見てくれているということだから。
ここ数日、しきりに考え悩むようすを見せて、大事な夕食の時間も味気ないものにしていた母だったが。
今日は本来の姿に戻っている。裕樹の持ち掛ける他愛もない話題に、ちゃんと耳を傾けて、時折茶々を入れたり、笑ったり。
これこそが、あるべき姿だと裕樹は安心した。
「……よかったね、ママ」
「え?」 唐突な裕樹の言葉に、佐知子がキョトンとする。
「仕事のことで悩んでるって言ってたけど。解決したんでしょ?」
普段は母の仕事のことに口ばしを挟んだりしない裕樹だが。
問題が片付いたということなら、軽く触れるくらいはいいだろうと思ったのだった。
無論、それがどんな問題だったかは、裕樹はまったく知らないのだが。
「え、あ、そう、ね……」
佐知子が、うろたえたようすを見せるのが、裕樹には可笑しかった。
ママ、驚いてるけど。僕だって、これくらいの気遣いは出来るんだ……と。
得意な気持ちになって、
「よかったね」 もう一度、そう言って。笑顔を母に向けた。
「え、ええ……ありがとう」 食事が終わって。裕樹は風呂へ向かった。
流しに立って洗い物をはじめながら、佐知子はフッと息をついて、肩の力を抜いた。
裕樹の前で見せていた常と変わらぬ態度は、佐知子が意識してとっていたものだった。
“いつもどおり”を演じていたのだ。
(……ごめんね……裕樹……)
それは、信じあうべき家族を、騙したということだから。
自分の演技を素直に信じて、無心に喜んでくれた裕樹を思うと、なおさら胸は痛む。
だが、それでも、絶対に気づかれてはならないのだ。
自分のうえに起こった変化。かかえこんだ秘密。
……達也の想いを受け容れてしまったこと。
裕樹の同級生、中学生の少年の求愛に応じてしまった。
いまだに信じられない……などと言えば、逃避でしかない。
すべては現実に起こったことだ。
逃れようもない事実……自分は達也に惹かれていた。ひとりの男性として達也を意識して、熱い感情を抱かされていた。
必死に目を背けていた、その想いを。今日、ついに認めさせられてしまった。
なんということを、してしまったのかと思う。
息子と同じ年齢の若者に恋慕を抱くことも愚かだが、その感情を露にしてしまったことは、いっそう愚かだと。
あの時には……そうすることが、唯一正しいことのように思えたのだったが。
達也と別れ、時が経つほどに、悔いる気持ちが大きくなっていく。
これから、どうなるのか? と、考えると暗澹たる思いにとらわれる。
自分が応じたことで、達也とは相違相愛の間柄ということになったのだろうが。
それで、明るい前途など、思い浮かべられるわけもなかった。
なによりも恐ろしいのは、事実が露見したら、という想像だった。
そんなことになったら……身の破滅だ。
自分のためにも、達也のためにも。
この“恋”は、絶対に秘匿しなければならない。
佐知子にとって、最も警戒すべきは、当然、息子の裕樹だった。
最も身近にいる存在。
また、万が一にも、事実を知った時に、裕樹が受けるだろう衝撃を慮れば…。
それは、佐知子には恐ろしすぎる想像だった。
だから。今夜、必死に平静を装ったように。
これからも裕樹の目を欺いていかなければならないのだ。
(……ごめんね、裕樹。ごめんなさい……)
また、胸の中で我が子に詫びる。
母親たる自分が、息子に秘密を持つこと。
母でありながら他の存在に(それも、我が子と同い年の少年に)想いを向けてしまうこと。
ただ、佐知子には、相姦の関係にある息子を、恋人として裏切るという意識は
ほとんどなかった。
それは、もともと佐知子にとっては、肉体を重ねることも、我が子への溺愛の延長上にあったからだ(逸脱していることは、さすがに自覚していたが)。
佐知子にとって、裕樹は、あくまでも子供であって、“男”ではなかった。
(……ママをゆるして……)
だから、裕樹への罪の意識は、母親としてのもので。
しかし、赦しを乞うということは、過ちと知りながら、そこから引き返すつもりもないということだった。
……この“恋”は短く、必ず悲しく終わるはずだから、と。
そんな悲愴な悟りを免罪符として、
(……だから、いまは……いまだけは……)
そう、自らをゆるそうとする佐知子の。
心の傾きは、彼女が自覚しているよりもずっと深いようだった。
……だって、仕方がないではないか。
自分だって、女だから。
あんな、魅力に満ちた若者に。
あんなに、ひたむきな想いを向けられたら。
あれほどに、純粋な瞳で見つめられたら。
あのように、優しい声で囁かれたら。
心、動かされてしまうのも、無理もないことではないか。
生身の女なのだから。この身も心も、木石で出来ているわけではないから。
あんな、逞しい腕で抱きしめられたら。
(……あんな……キスをされたら……)
佐知子の頬が、ポーッと上気して。かすんだ双眸には潤みがます。
流しに立ったまま、食器を洗う手は最前から止まっている。
濡れた手が、そろそろと持ち上がって。
指先が、ふくよかな唇に触れた。そっと。
あんな……口づけは、知らない。知らなかった。
あれほどの、情熱と技巧を受けたことはなかった。
あんなにも、熱くて激しくて甘いキスは……。
「……あぁ……」 切なく、熱い吐息がこぼれた。
佐知子は、ギュッと己が体を抱きしめて、身の内の熱に耐えた。
思い出すだけで……腰がくだけそうになる。けっして消え去ることのない愉楽の記憶。
唇に残る余韻だけで、悔恨も不安も薄れていってしまう。
「……達也…くん……」 堪えきれず、その名を呼んだ。ひっそりと。
明日になれば、また自分は、達也の待つ病室へと向かう。
これからどうなるのか? と恐れながら。どんな顔で会えばいいのか、と羞恥しながら。
それでも、足は急くのだろう。少しでも早くと、心は逸るのだろう。
会いたい。
結局は、その想いが胸を満たしていって。
佐知子は、また切ない息をついた。

……静かな病室。
聞こえるのは、かすかな衣擦れの音と。
「……ふ……ん…」 乱れた呼気に混じった、細く弱い鼻声。
そして、隠微な濡れ音。
白い明るい部屋にそぐわない、それらの響きは、ベッドの上から。
上体を起こした達也の腕に、肩を抱きかかえられて。
白い喉を逸らして仰のいた佐知子が、口を吸われている。
不自然にねじれた白衣の腰がベッドに乗りかかって、白いストッキングに包まれた脚が宙に浮いているのは、強引に抱き寄せられたことの証左だろうが。
しかし、いまは佐知子は抵抗の動きは見せずに、ただ、達也の胸に力弱く突いた手にその名残をとどめているだけだった。
ピッタリと合わさった唇の間から、湿った音がもれる。
閉じた瞼も、白皙の頬も、ボーッと上気させた佐知子は、甘く鼻を鳴らして、達也へと倒れかかった身をよじった。豊満な肢体を包んだ白衣が、
シーツを擦って、かすかな音をたてる。
佐知子の態度は、あくまで受動的なものではあったが。しかし、彼女が行為に耽溺しきっていることは確かなように見えた。
……やがて。ようやく達也が口を離して。濃厚な口吻は中断した。
「……ふぁ……はあ……」 佐知子は解放された口を開けて、新鮮な空気を求める。
半ば開いた眼で、ボンヤリと達也を見上げた。
「……また……病室で、こんな…こと、を……」
弾む息の下から、切れぎれに、そう言ったが。
その瞳は蕩け潤んで、眼元も頬も血の色を昇らせて。濡れて、しどけなく緩んだ唇から洩らす声は、恍惚に震えているのだから。少しも責めているようには聞こえない。
「……いけないのよ……こんなこと……」
恨めしげに、達也を上目遣いに見る表情も、かすかに甘い媚びが滲んで。
実際、いけないと言いながら、佐知子はまだ達也の腕に身を委ねたままで。
片手は、達也のパジャマの胸元を掴みしめていた。
「いいじゃないか」 達也は、気楽に笑って、
「ここは、僕と佐知子さん、ふたりきりの場所なんだから」
顔を寄せて、ことさらに秘密めかした声で、佐知子の耳に囁いた。
耳朶に吹きかけられる達也の吐息に、佐知子はゾクリと細い首をすくめて、
「……もう…」
また、責めるようにそう言ったが。
そんな言葉の逐一が、どうにも言いわけじみていることは、自分でもわかっていた、あの夕陽に照らされた屋上での、最初の口づけから、二日。
すっかり恋人気分の達也は、ことあるごとに佐知子を引き寄せて、キスをしかけてくる。
そして、佐知子は、一度もそれを拒みきれたことがなかった。
どころか、回数を重ねるほどに、抵抗は短く弱くなって。
達也の強い腕に抱かれて、長く濃密な口舌の戯れに酔わされて。
ことが終わったあと、夢心地の中で、つけたしのように達也の強引さを責める。
まったく言いわけでしかない言葉を口にすることで、勤務中に、担当の患者と、淫らな行為に耽った自分を正当化する。
そんなことを繰り返していた。
唇を重ねるごとに、達也への傾倒を深めていく自分を、佐知子は感じている。
かたちばかりの事前の抵抗とは逆に、口づけを解かれた後、達也から身を離すまでの時間は、どんどん長くなっている。
達也が言ったように、ふたりきりの病室であるのをいいことにして。
いまも佐知子は、達也の腕に体を預けたままで。乱れた息を整えながら、うっとりと達也の顔を見上げていた。
(……もう少し……こうしていたい……)
快楽に蕩けさせられた思考は、そんな素直な願望に支配される。
頭や心だけでなくて、体も、すぐには再起動できそうになかった。
深い愉悦の余韻に痺れて、力が入らない。
引かない熱が、いっそう気だるさを強めるようだった。
「ずっと、こうしていたいな」 達也が囁く。
「こうして、佐知子さんを抱きしめたまま、いつまでも過ごしていたい」
佐知子の肩を抱いた手に、力がこもる。
(……あぁ……)
達也が、同じ想いでいてくれることに、泣きたいような幸福を感じながら。
「……でも」 いまこの時の歓喜が、佐知子に未来への悲観を口にさせる。
「……達也くんは、怪我が治ったら……この部屋を出ていく……」
それは、遠い先のことではない。
「……ここを出たら……すぐに、私のことなんか、忘れてしまうわ……」
それは、佐知子が心に留め置こうと努めている覚悟だった。
あまり、達也にノメりこまないようにとの戒め……その効果のほどは怪しかったが。
「まだ、そんなことを言うの?」
「……そうなったほうが、いいのよ、きっと。そのほうが、達也くんの……っ!?」
分別めかした言葉は、半ばで封じられる。達也の唇に。
「んんっ」 驚き、咄嗟に振り解こうとする佐知子の抗いを、頬にかけた手で抑えて。
「…ん……ふ……」
スルリと潜りこませた舌の動きで、瞬く間に佐知子から抵抗を奪っておいて。
一度、口を離した達也は、額を合わせるようにして、佐知子の、早くもトロンと霞がかった眼を覗きこんだ。
「聞きたくないから、塞いじゃったよ」
不敵な笑みを浮かべて、そう言った。
「これからも、そんなこと言うたびに、同じようにするよ」
「……達也…くん……」
「それとも、最初からこうしてほしくて、そんなこと言ったのかな? 佐知子さんは」
「そ、そんなこと……」 ああ……そうでないと、言い切れるだろうか? 本当に。
少なくとも、自分の悲観を達也に否定してほしい気持ちが、確かにあったのだと、佐知子は気づく。
まるで子供じみた、自分の心の動きに恥じ入りながらも。
達也へと向ける眼に、物欲しげな色を滲ませてしまう。
しどけなく開いた口の中で、舌が誘うようにそよいでしまう。
そして。達也は、それに応えてくれる。
「信じさせてあげる。僕のこと、もっと」 そう宣告して。再び、顔を寄せた。
佐知子は、僅かな抵抗も見せず、そっと目を閉じて、達也の唇を受け入れる。
続けざまの口吻に、達也は、いつもの擽り焦らしたてるようなプロセスの技巧を省略して、いきなり激しい勢いで、佐知子の肉感的な唇に吸いついた。
挿しこんだ舌で、佐知子の口腔を舐めまわし、可憐な舌を絡めとった。
佐知子は、荒々しい蹂躙を喜ぶように、フウンと鼻を鳴らして。
達也のパジャマを掴んだ手にギュッと力がこもる。
(もっと、もっと。信じさせて。もっと)
紅く染まった意識の中で、何度も叫んだ。
苛烈さの中に、確かな巧緻をひめる達也の舌が、繊細な粘膜を擦りたてるたびに、瞼の裏に火花が散った。
こんな口づけは知らない。こんなに熱くて、こんなにも甘美なキスは。
達也が教えてくれた、達也に教えられた悦び。
その数を増やすごとに、佐知子の唇も舌も、未知の感覚に馴染んで。
馴染むほどに、より愉悦を深めていく。
(もっと……もっと、教えて)
このはじめてしる快楽に浸らせてくれ、と。
佐知子は、自分からも必死に達也の舌を吸って。
流れこむ達也の唾液を、喉を鳴らして飲んだ。
熱い滴りを臓腑に落とすことで、己の血肉が、達也の色に染められていく気がして。
それに、身震いするような幸福を感じながら。
……長く濃厚な口吻に溺れこむうちに。
佐知子の体勢は崩れて、もはや仰向けに倒れた状態になっていた。
しかし、佐知子は、そんな変化を気にかける余裕もなく。
その量感に満ちた肢体に圧し掛かかって、執拗に口をねぶってくる達也の肩にしがみついて。夢中で激しい行為に応えていた。
その眉宇は、うっとりと広がって。
閉じた眼元や、火照った頬を艶かしい桃色に染めて。
吹き広げた鼻孔から、火のような息をついて。
互いの唾に濡れて、ヌメ輝く肉厚の紅唇を、達也のそれへと押しつけ、自分からも舌を挿しいれて、達也の口腔を味わっている。
(……フン。お手軽だぜ、まったく)
口舌の技巧を緩めることなく、佐知子の昂ぶりを煽り続けながら、達也は薄く開いた眼で、冷徹に観察していた。
なんだかんだと言いながら、チョイと吸ってやれば、途端に溶け崩れて発情のさまをあらわにしがみついてくる年上の女を嘲笑う。
また、ドロリと大量の唾を流しこんでやる。佐知子は嬉しげに鼻を鳴らして、嚥下した。
細かな汗をかいた白い喉が波打つ。
汗は、佐知子の鼻頭や額にも滲んでいた。シーツの上に乱れて、ナース・キャップのズレた黒髪も、ジットリと汗をはらんで、強い香を放っている。
発情した牝の匂いだと、達也は知っている。
それも、熟れた肉体に、タップリと欲望をためこんだ雌ブタの臭いだ。
熟れきって、渇いて、餓えて。しかし、それを自覚していない。
気づいていないのは、お粗末なセックスしか経験していないからだ。
本当の性の悦びを知らないから、貞淑ヅラが出来る。本人も、そう思いこんでいるが。
この手の“淑女”こそ、見知らぬ快楽を教えられれば、狂う。
爛熟したまま捨て置かれた肉体は、乾いたスポンジか旱魃の大地のようなもので。
一滴の快楽は、あっという間に沁みこんで。そうして、はじめて己の渇きに気づいて。
その後は、いままでそんな世界を知らずに過ごしてしまったことの恨みを晴らそうとするかのごとく、
際限もなく快楽を求め、色情に狂っていく。
……だから、熟れた年増女は、それもお堅いタイプの女ほど、チョロい。
とは、経験から導かれた達也の認識である。
狙ってオトせなかった女も、自分にコマされて従属しなかった女も、過去にはいないから、達也としては、己の結論を疑う余地もない。
わけても。
もっとも新たな獲物である佐知子は、その典型だと思えた。
いくら、達也の超絶技巧とはいえ、たかがキスだけで、この乱れよう。
それは、達也の思惑以上に靡いてしまった佐知子の心のせいでもあろうが。
なにより、貧弱なセックスしか知らず、快楽に慣れていないことが原因だろう。
なにしろ、最初は舌のからめかたひとつ知らなかったのだ。
度重ねた“レッスン”で、どうにかサマになってきたが。
まったく死んだ亭主とやらは、いったいなにをしていたのかと、達也は呆れたものだった。
(つくづく、俺と出逢えてよかったなあ、佐知子)
倣岸な述懐は、実はマジメに、そう思っている。
経緯はどうあれ、ヤラれた女は自分に感謝するようになるんだから……と。
これまた、達也の経験上では、ひとつの例外もない事実だから、タチが悪いが。
(……さて、と)
ボチボチ、“レッスン”を次に進めてやろうと考える。
じっくりと佐知子を追いこんでいくのは、最初からの予定通りだが。
どうにも、佐知子の反応がいちいち楽しくて。ついつい時間をかけすぎてしまう。
達也は、佐知子の頬にあてていた手を滑らせて。
隆く盛り上がって、呼吸につれて荒く上下している豊かな胸乳を、そっと掴んだ。
「フッ、アアッ」
佐知子は、ビクッと背を逸らして。達也の口の中に、快感の声を吐いて。
それから、愕然と両眼を見開いて、乳房に被せられた達也の手を掴んだ。
「……だ、ダメよっ、達也くん!」
口吻をふり解いて、引き攣った声を張り上げた。胸から達也の手を引き剥がす。
「少しだけ」 甘えるように達也は言って、払われた手をすぐに佐知子の胸へと戻していく。
「ダメっ!」 胸を肘で庇いながら、佐知子は身をよじった。
しかし、起き上がろうとした動きは、首にまわった達也の腕に阻まれて、
「や、やめて、達也くん、こんな……んんっ」
怯えた声で制止を叫んだ口は、強引に塞がれてしまう。
捕まった舌を強烈に吸われ、ギュッと乳房を握りしめられた。
「ーーーーッ!?」
口腔と胸乳、ふたつの個所から走る電撃のような刺激に、佐知子は顎を反らして、くぐもった悲鳴に喉を震わせる。
その叫びさえ吸いとって、達也の口舌は、なおも仮借ない攻撃を続ける。
その一方で、乳房にかかった手のほうは、力を緩めて、柔らかな肉房を白衣の上から優しく撫でさするような動きに変わった。
「……フ……ム……ンンッ…」
たちまち、佐知子の脳髄は痺れて、眼を開いていることさえ出来なくなる。
苦悶するように眉根を寄せても鼻から洩れる息はどうしようもない昂ぶりを切なく告げて。
乳房を弄う達也の手にかけた指にも、抵抗の力は伝わらずに。
ただ、こらえきれぬ感覚を訴えるかのように、達也の手の甲に爪をたてるだけ。
白いシューズが、揺れる。
宙に浮いた佐知子の片脚。白のストッキングに包まれた肉感美の脚線の先端、
汗に湿って、わずかに蒸れた臭いを放つ爪先に危うく引っかかった、踵の低い靴が。
佐知子の身悶えにつれて、ブラブラと頼りなく揺れている。
……やっと、達也が蹂躙していた佐知子の口腔から舌を抜いて、顔を離す。
佐知子は、涎まみれの唇を大きく開いて、酸欠状態の頭と身体に、空気を送りこんだ。
ゼイゼイと喘ぎながら、苦労して眼を見開く。
「……た…たつや、くん…もう、やめて…おねがい…」
荒い呼吸の中で、弱々しく懇願した。
キスは解かれても、達也の手は、いまだ佐知子の片胸に置かれていて、やわやわと、繊細なタッチで刺激を与え続けているのだった。
「もうちょっとだけ」 佐知子の熱い頬にチュッチュと口づけながら、達也は囁く。
「佐知子さんの胸、とっても柔らかくて、キモチいいから」
実際には、まだ、制服と下着越しの接触なのだが。それでも、
そのたっぷりとしたボリュームと熟れきった肉の質感を、達也の掌は感じとっていた。
「ダメ、いけないのよ、こんなこと」
佐知子は、鼻からぬけそうになる声を、必死にはげまして。
わずかに力の戻った腕で、ようやく達也の手を胸から引き剥がすことに成功する。
しかし、弄う指が離れても、胸に巣食った熱い感覚は消えない。
帯電したように、ジンジンと疼き続けている。
(……どうして…? こんなに……)
着衣の上からの軽い愛撫に、これほどの感覚を喚起される自分の身体の異状に怯えた。
「僕に触られるのは、イヤ?」
「そ、そんなことじゃ、ないけど」
わざとらしく、拗ねた口調を作る達也に、律儀に答えてしまって。
ああ、こんな戯言を言っている場合ではない、早く起き上がって、この危うすぎる状態から脱しなければ、と思っても。
身体が動いてくれない。手も足もグッタリと重たくて、腰に力が入らない。
「…ほ、本当に、もうやめて。おねがいよ、達也くん」
だから、佐知子は、せめて腕で胸元を庇うようにして、泣くような声で達也に哀願するしかなかった。
達也は、佐知子の上気した顔を覗きこむようにして。クスリと笑った。
「感じすぎちゃうから?」
「なっ!? ち、ちがう、そんな」
「だって、ほら」 達也の手が、佐知子の防御をすりぬけて。
指先が、隆い肉丘の頂を、グッと押した。
「ヒァッ」 甲高い悲鳴を迸らせて、佐知子が感電したように仰け反る。
「ここ、硬くなってるみたいだけど?」
「ヒッ、ヤ、やめ、アッ」
グッグッと、さらに数度、強く押し揉まれて、佐知子は断続した叫びを上げて、ビクビクと身体を震わせた。必死に達也の手を掴みしめる。
確かに、これほど強く圧迫されると、佐知子の肉体の変化は、白衣とブラジャー越しにもハッキリとわかった。
硬く尖り立って、より鋭敏になった肉蕾を荒っぽく刺激されて、電撃のような感覚が、佐知子の胸先から全身へと走った。
「やめ、やめてやめてっ、アッ、アア」
激しく首をふって、訴える佐知子の髪は、さらに乱れて、ナース・キャップは完全に外れてしまう。ジタバタと暴れる足からは、シューズが床に落ちた。
「感じやすいんだね、佐知子さんは」
「いやぁ……」
優しげな達也の囁きが揶揄にしか聞こえず、佐知子は力なく頭をふった。
激しい羞恥と、ズキズキと響く鮮烈な感覚に、涙が滲んだ。
「おね…おねがい、だから、達也…くん」
達也の手を、止めるというよりは縋るように掴んで、涙声で哀訴する佐知子。
「どうしたの? 気持ちよくなってくれてたんじゃないの?」
「ち、ちが…ダメなの、こんな」
「いいじゃない。ここには僕と佐知子さんしかいないんだから。もっと気持よくなってよ」
そう言って、達也は、佐知子の胸を責めていた手を移動させて、
スッと脇腹を撫でさすった。
「ヒッ、アッ」
途端に、佐知子は高い声を上げて、ビクビクとくびれ腰をくねららせる。
まるで、薄皮を剥かれたように全身の神経が鋭敏になっていて、達也のごく軽い接触に、過剰な感応をしてしまう。
「フフ、可愛いよ、佐知子さん」
なおも脇腹から腰のあたりを撫であげ撫でおろして、佐知子を悶えさせながら、達也は笑って。汗を浮かべた佐知子の鼻にチュッと口づけた。
「だ、ダメ、ダメ、達也くん」
うつつに口走りながら、佐知子は、身体の側面を這う達也の手を払おうと、甲斐のない抵抗を示す。
押し流されてしまいそうな自分を自覚しながら、どうすることも出来ずにいた。
どうして、達也の手は、こんなにも心地いいのだろう?
これくらいなら……こうして、服の上から触れられるだけなら……と、
優しい慰撫の手を受け入れて、この心地よさを甘受しようとするほうへ意識が傾いていく。
しかし。腰をさすっていた達也の手が、さらに流れて。
乱れた白衣の裾から伸びる太腿にかかったことが、佐知子の理性を呼び覚ました。
「ダメッ!」 鋭い声を発して、強く達也の手を掴んだ。
「いけないわっ、達也くん」 これ以上は、と決死な表情で達也を見つめる。
貞操を意識する部分に近づいたことが、佐知子の危機感を蘇らせたのだった。
「わかったよ」 意外にも、あっさりと達也は折れて。
置き土産のように、ストッキングを汗で貼りつかせた内腿をひと撫でして、小さな悲鳴を上げさせたあとに、佐知子の下肢からら手を離したが。
「いまは、佐知子さんの素敵なオッパイだけで我慢するよ」
「…えっ? あ、いやっ」 佐知子を翻弄する手は、隆い胸元に戻って。
あろうことか、白衣の合わせをくぐって内側に潜りこんでくる。
いつの間にか、佐知子の胸のボタンは、上からふたつが外されていた。
「た、達也くんっ、ダメ……アァッ」
フルカップのブラジャーごと豊満な肉の膨らみをつかまれ、大きなカップを押し潰すようにギュッと握りしめられて、苦痛とも快感ともつかぬ強烈な感覚に、佐知子は甲高い叫びを迸らせて、背を反らせる。
「スゴイや。本当に、大きいね。佐知子さんのオッパイ」
「アッ、イ、や…め、アアッ」
さらに何度も手の中の肉房を強く握って、佐知子に悲鳴をしぼり出させて。
達也は、不意に激しい勢いで、佐知子の唇を奪った。
「フウウ……ム…ウウ…」 抗議の声は封じこめられ。
佐知子の必死の抗いは、達也のキスの威力に、たちまち弱められていく……。
……佐知子の意識は混沌の中に投げこまれて。なにがなんだかわからないままに達也の狼藉を許してしまっている。
白衣は、完全に前をはだけられ、肩をぬかれてしまった。
純白のブラジャーも、すでに乳房を隠す役目を果たしてはいなかった。

Last Update : 2008年12月04日 (木) 7:36